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組織であれ個体であれ、三という数になるとそこには派閥というものが生じます。一対二となり、一となったほうは、二から攻撃をうけます。これが新撰組が生まれた当初行われました。まだ、壬生浪士組と名乗っていた当時、京都に残留していた派閥は、試衛館一派である近藤派(近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助そして以前より試衛館に出入りしていたとされ、京都にて浪士隊に参加した斎藤一)の九人、芹沢鴨率いる水戸派(芹沢鴨、新見錦、平山五郎、平間重助、野口健司、斎藤と同じく京都で浪士隊に参加した佐伯又三郎)の六人、そして殿内派と呼ばれる(殿内義雄、家里次郎、遠藤丈庵、神代仁之助、根岸友山、鈴木長蔵、清水五一)の七名に | 同じく浪士隊より脱退をした粕谷新五郎、阿比留鋭三郎の二十四名でした。 この時点で三派閥が二対一の体勢を取りました。殿内派が一となり、近藤芹沢派が結託して攻撃したのです。殿内義雄は、浪士隊取締役鵜殿鳩翁との繋がりもあり、主導権を握ろうとしていたとも言われてます。それを阻止しようと近藤、芹沢派が手を結び殿内派の粛清をはじめました。おそらく近藤、芹沢たちからしてみれば清河の帰東命令に真っ先に反対する意志を示した自分たちとは違う、そして何よりもお互いの存在よりも手強い相手と感じたのでしょう。共通の敵を前に二派は手を結ぶのです。 | |||
文久三年、三月十二日に壬生浪士組は、嘆願が聞き入れられ会津藩お預かりという立場となります。 | 四月六日、阿比留鋭三郎殺害(表向きは病死)。 | |||