芹沢鴨

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 1827年に常陸国行方郡芹沢村に生まれる。本名は、下村義次、木村継次と二つの説があります。芹沢鴨と名乗るのは浪士隊に参加した頃です。彼は、もともと水戸の天狗党に在籍してました。ここで一つの問題があります。それは、水戸の天狗党とは、尊皇攘夷派です。水戸藩自体が徳川御三家であるにも関わらず攘夷派でした。そうなったのは、この水戸の地形にも深く関わりがあるようです。水戸藩は所謂現在の茨城にあたりますが、海に接しており長い海岸線をもった地です。そしてこの頃、領海に外国船が度々現れるようになり、そしてついにはイギリス船二隻より乗組員12名が大津浜に上陸する事件が起こったのです。これには水戸藩も衝撃を受け、このままでは日本は西洋に

侵略されてしまう・・・という危機意識を持つこととなったのです。もちろんこの時のイギリス船は、軍艦ではなく、漁船だったのですが・・・つまり、この頃の水戸藩の攘夷とは、反幕府的な要素を含んでいたというよりも外国への姿勢だったといえます。芹沢がいた天狗党、この天狗とは、有志の者という意味です。芹沢の気性の激しさは天狗党時代にも有名であったようで、牢獄に入り、死罪まで言い渡されるような事件を起こしています。この時彼は、辞世の句「雪霜に色よく花のさきがけて散りても後に匂う梅が香」と歌っています。なかなかの風流人でもあったのかもしれません・・・しかしその歌をしたためたのが小指を噛みきりその血で・・・というのはやはり激しい芹沢鴨らしいといえます。

そして、文久三年、上洛のための将軍警護という名目の浪士隊に同郷の新見錦、野口健司、平山五郎、平間重助を引き連れ参加するのです。しかし、清河八郎の手のひらを返すごとき「尊皇攘夷」路線への転換に反発し、試衛館一派とともに京都に残留し、新撰組をつくることとなるのです。彼がいつも手にしていた三○○匁の鉄扇には、「尽忠報国」と書かれていたそうです。剣の腕は相当なものだったと伝えられております。流派は神道無念流、免許皆伝。もし、彼が酒に溺れることなくまともに剣をとれば近藤、そして沖田ですら・・・とまで伝わってます。そんな試衛館一派と芹沢一派との確執は浪士隊として京に上る道中より生じておりました。宿の手配を任されていた近藤勇が芹沢たちの宿の手配を忘れたということで、

芹沢が腹いせに往来で大篝火をたき、それを止めにきた役人まで鉄扇で殴り気絶させてしまったのです。近藤は芹沢に土下座し謝罪したとのことです。はたしてこれを見ていた土方、沖田、試衛館の連中はどう思ったでしょうか、自分たちの大将が土下座させられている・・・この時、芽吹いた芹沢への憤りは、後に芹沢が起こした数々の粗暴な事件を肥やしとし、試衛館一派の中で大きく膨らんでいくのです。いえ、もともと尊皇攘夷派の水戸の芹沢と将軍直轄地で生まれ育った近藤らとでは、あまりにも考え方の違いがありました。そして・・・これより先の芹沢鴨については「芹澤鴨暗殺事件」に記述しております。