文久三年春、新撰組が会津藩御預かりという立場となりますが、当初は手当など支給されることなどなく、自ら商家などに出向き献金させていたと申しましたが、では、新撰組が初めて正式な手当といいますか、金子が支給されたのは、「八月十八日の政変」にて出動したことに対する朝廷より賜った報償金ではないでしょうか。しかしそれとて一人につき一両だったとも言われています。元治元年の池田屋の功績前と後とでも、給金の額が変わってきますが、当サイト新撰組活劇は小説の進行にあわせて史実を辿っていきますので、池田屋より後の給金、御手当、報償金については、のちほどとさせて頂きます。 正式に新撰組の待遇が決まり、給金が支給され始めたのは文久三年の暮れとされています。 新撰組局長である近藤勇は、大御番頭取として五十両、副長土方歳三、山南敬助は、大御番組頭として四十両、沖田総司ら副長助勤は、大御番組として三十両、他平隊士は、大御番組並として十両が支給されることとなったとされています。 この時代の一両が現在のいくらになるというのは、はっきりと申し上げにくいのですが、一両が三万とも六万ともされています。 物品に対する価値も現在とはまったく違っておりましたので、比べることが不自然なのかもしれません。 当時は一両についての相場も激しく変動していたようです。 そして江戸では金をそして大坂では銀が使われていたようです。 新撰組がおりました京都は上方(大坂)に近いこともあり、銀が使われたのではないでしょうか。 |