高杉晋作

天才と呼ばれ、魔王と呼ばれた軍才を以て、奇兵隊を率い戦った軍師「高杉晋作」

高杉晋作は、天保十年(1839年)八月二十日、長州(山口県)に、高杉小忠太の長男として生まれる。 上士と呼ばれる藩政に携わるほどの家柄で、百五十石取りの裕福な家に育ちます。長州藩ではおよそ百石取り以下を下級武士と位置づけられていたのでそのことからも高杉家が藩の中でも上位ついていたといえます。幼少の頃は病弱であったが気性の激しさは、並々ならぬ少年であったそうです。学問、剣術ともに充分に学べる環境ではありましたが、藩校の明倫館に通いながらも攻撃的な気性もあったのでしょう学問よりも剣術にのめり込み将軍家御流儀としても名高い柳生新陰流免許皆伝の腕前となります。

高杉晋作は友であり、最高のライバルともいえた久坂玄瑞と共に安政四年(1857年)、十九歳で吉田松陰が松本村に開いていた松下村塾の門下生となります。のちに松下村塾四天王(高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一)と呼ばれるほどの頭角を現します。吉田松陰は晋作の気性の激しさの中に潜む優れた資質を見抜き彼を高く評価していたと言われてます。剣術のみならず学問にも秀でた高杉晋作は、藩校の明倫館舎長となります。しかし、元来の激しい性格のため、しばらく日本より離そうとの藩の考えもあり高杉晋作は、文久二年(1862年)上海へ向かう幕府の貿易船「千歳丸」に乗船し、上海という異国の地で欧米列強国の力を見せつけられ、

上海という国の植民地のごとき扱いに母国、日本の現状を重ね、幕藩体制の打倒を決意します。帰国した高杉は文久三年(1863年)六月二十七日、念願の奇兵隊総督に任命されます。奇兵隊とは、正規の藩士だけでなくそれに使える家来、軽卒と及ばれる身分の低い者、一般庶民が集まってつくられた国民義勇軍ともいえる軍隊。(しかし、庶民よりも武士階級の者たちの人数のほうが多かったそうです)
高杉晋作は、安政七年(1860年)に父親が決めた女性の政子と結婚しましたが、彼には正妻の政子とは別に自由奔放な女性オノウという恋人がいました。彼は、オノウをこよなく愛していたそうです。

文久三年末には奇兵隊の人数は三百人を超え、その二年後には、五千人を超えていたと伝わっています。高杉晋作の力の象徴ともいえるこの奇兵隊を率いた高杉晋作は、禁門の変(長州藩の皇居への発砲)により、幕府が元治元年(1864年)七月に発動した第一次征長戦争では、敗退したものの、
慶応二年(1866年)、時の将軍、徳川慶喜の発動した第二次征長戦争では、そのときすでに藩の実権を握っていた高杉晋作率いる奇兵隊は幕府軍を打ち破ります。しかしそれだけの組織力を手にした高杉晋作でしたが、病には勝てず、患っていた
肺結核がもとで慶応三年(1867年)四月十四日、この世を去ります。
高杉晋作、享年二十七歳。短くも激しい人生でした。

高杉晋作辞世の句

「おもしろき こともなき世を おもしろく」

高杉晋作の死後、彼が愛した女性オノウは、剃髪し

「梅処尼」と名乗ったそうです

高杉晋作年表〜奇兵隊設立迄

天保十年(1839年)八月二十日
長州藩主毛利敬親に仕える藩士高杉小忠太と妻みちのもとに生まれる

気性の激しかった少年であったことを伝える出来事として
ある日、凧揚げに興じていた晋作の側を武士が通り、
凧を踏んでしまったが、そのまま通り過ぎようとした
だが、晋作はその無礼を許さず、「詫びねば、この泥を投げお前の紋を汚す!」と
藩士であった其の武士にとって紋付を汚す事は、決してしてはならないことであり、
武士は年端もいかぬ少年に詫びたそうです。
つまり、幼い晋作は大人の武士を負かす術を見抜いていたのです。

藩士の長男として十四歳になると藩校である明倫館にて学び
それ以上に剣術の鍛錬に励み、
柳生新陰流の免許皆伝者となる。

安政四年(1857年)
十九歳

友である久坂玄瑞と共に吉田松陰「松下村塾」の門下生となり、
そして晋作の才能を見抜いた吉田松陰は、彼を非常にをかわいがり
七十余名が学んだとされる塾生の中において筆頭の久坂玄瑞と共に
「松下村塾四天王」と呼ばれるまでになる

安政七年(1860年)一月二十三日
二十三歳

山口町奉行井上平右衛門の次女、井上雅子と結婚

文久二年(1862年)二十四歳

一月三日
桂小五郎の斡旋もあり、藩主毛利敬親より「海外視察」の命を受け、
幕府の使節勘定役根立助七郎らと共に上海に向う貿易船「千歳丸」に乗船し、壮途に就いた。

貿易品目仕入れのため千歳丸は四月末まで長崎に停泊し、
目的地の上海に向った。

五月五日
ウースン江に入港

高杉晋作が眼にした上海は、イギリス、フランスの圧倒的な軍事力により属地となった惨状であった。

「支那人は尽く外国人の使役となり、英仏人が街を歩行せば、清人は皆避けて傍に道を譲る
実に上海の地は支那に属するといえども、英仏の属地と謂うもまた可也・・・」

彼の上海滞在中の日記には、其の惨状が書かれています。
西洋諸国による植民地の如き上海にニッポン国の将来に危機意識を強くもちます。

二ヶ月の上海滞在を終え晋作は帰国します。

文久二年(1862年)十一月十三日
二十四歳

久坂玄瑞、品川弥二郎、井上聞多、大和弥八郎、寺島忠三郎、長領内蔵太、赤根武人、山尾庸三、
白井小助、有吉熊次郎らと共に御盾組を結成し、江戸御殿山、英国公使館焼討ちをする。

文久三年(1863年)四月
二十五歳

剃髪し、「東行」と名乗り松本村に隠棲する。

文久三年(1863年)
二十五歳

五月十日より長州藩が行った攘夷決行は、欧米諸国の圧倒的な軍事力により大敗を喫し
藩主、毛利敬親は高杉晋作を呼び戻す。

六月七日
「有志之士」で組織する「奇兵隊」を創立することが認められ

六月二十七日
高杉晋作は奇兵隊総督に任命される。

ミニエー銃〜最新洋式銃イラスト

ミニエー銃イラスト

上記イラストは、薩摩、長州藩が競って輸入しようとした最新洋式銃、ミニエー銃です。このミニエー銃は、1846年、フランスのミニェー大尉が開発した椎の実型の弾丸を装填するために開発された銃です。
従来の弾丸が円形に対して、ミニエー弾は椎の実の型にし、銃身内に刻まれたライフリング(螺旋状の溝)を通過することにより、弾丸に回転を与え、飛距離そして命中力を高めた最新洋式銃でした。

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