| 文久三年(1863年)二月八日、江戸・板橋を京に向けて試衛館一門が入隊した「浪士組」が発ちます。中山道で木曽路を越え、近江で東海道に合流し、彼らはひたすら歩き続けます。沖田総司と改名し、浪士組の入隊名簿に沖田は、阿部播磨守元家来、陸奥国白河出身、年齢二十二歳と記述しています。もちろんこれは自己申告で、この記述を参考に遡り彼の出生年を天保十三年という説が有力ですが、すでに父親の代で白河藩とは縁切れた彼が、上記の元家来というように申告していることも踏まえて事実、出生年も確かとはいえません。彼に限らずこのような時は、あえて都合のよいように申告したと思われます。この名簿には沖田林太郎、つまり沖田総司の義理の兄(姉みつの夫)の名前も記載されてます。ただ彼は、途中で抜けました。 | | 浪士組は、東海道五十三次の終点である三条大橋を渡り京に入ります。そして住人士と呼ばれていた壬生の郷士の屋敷、八木源之丞、前川荘司宅などを宿舎としてあてがわれます。試衛館一門と芹沢一派は、八木邸を宿舎とすることとなります。しかし、京についたその日に発表された清河八郎の「帰東命令」に反発し、試衛館一門、芹沢一派は京に残ります。そしてその意気込みを買われ浪士取締役、佐々木只三郎を通じて三月十二日、正式に会津藩お預かりとなります。「壬生浪士組」、のちの「新撰組」です。まず、彼らは、浪士組の中で統制という名の粛清をします。殿内派の暗殺です。リーダーであった殿内義雄を斬ったのは、近藤勇に連れられた沖田総司とも言われてます。この粛清については、「新撰組粛清其の壱」に記述してます。 | |