若しくは、沖田総司はそれ以前に結核菌に感染しており、麻疹により抵抗力が落ちた時に「労咳」を発病することとなったのかもしれません。その時点では「肋膜炎」を患っていた可能性もあります。 結核菌は、他の伝染性のある細菌と比較して増殖、繁殖が遅いのです。ですから非常にゆっくりと病は進行していき、何年もかけて体内で病変を拡げていくのです。時には、菌が一旦休眠状態に入り、抵抗力が弱まった頃、再び発病することもあります。 現代でこそ「化学療法」として結核菌を抑え込む、死滅させるストレプトマイシン、リファンピシン等の抗生物質が治療薬として結核患者に投与されますが、江戸時代当時、「労咳」には「養生」という、風通しの良い場所で、安静にし、十分な栄養を取るということが、当時死病とされていた「労咳」への唯一の治療方法とされていました。 |  | 「高麗人参」という高価な薬草が「労咳」に利くともされていましたが、親指程の大きさの物が一両したとされていますので、余程裕福な者しか「高麗人参」を手に入れることができませんでした。庶民の間では、「労咳」は一種の気の病から来るもので、パッと憂さを晴らせば病も治るなどという風潮もあり、江戸の若者たちは「吉原」などに通いつめることもあった・・・と。つまり結核菌を保有した者が遊女を抱き、そして遊女が労咳の客から結核を移される、そしてその遊女から別の客へと結核菌が流れる・・・という具合に当時は、遊郭、岡場所などが「労咳」の坩堝だったそうです。 「肺病〜労咳」の初期症状としては、全身の倦怠感、夕刻に出る微熱、寝汗、胸痛等ですが、それらが進み、血痰を吐き始め、そして喀血に至るのですが、当時の人は喀血したからとそれが肺からか胃などからの喀血か判断しずらかったようです。 |