| 新撰組では「局長」となった近藤勇も浪士組に入隊した頃は只の一隊員でした。しかし、宿番などの地味な仕事にまわっていた近藤勇の行動に眼を光らせていたのが浪士取締並出役であり、会津藩重役手代木勝任の実弟の佐々木只三郎でした。清河八郎を斬ったその人です。彼は途中の宿場で起きた事件、芹沢の宿の手配を忘れたことにより、芹沢が道のど真ん中で大篝火(かがりび)をするという暴挙にでたことに対して冷静にその場を収めた近藤の判断能力、そして清河の策に反発し、京に残留を決めた強い意志を持つ近藤勇という人間に共感し、佐々木は近藤と会津の仲立ちをすることとなります。そのおかげもあり、京都残留浪士組は晴れて会津藩御預りとなるのです。京都残留一派でもあった殿内派をまずは粛清した近藤、芹沢は、壬生浪士組の隊長となります。この時、もう一人芹沢派から新見錦が隊長に選ばれます。 | | 芹沢派と試衛館、近藤派の張りつめた関係が始まるのです。近藤勇という人物は新撰組の代表として反尊皇攘夷と思われがちですが、先にも述べましたが、彼はあくまでも朝廷と幕府が手を結びそして攘夷(外敵と戦う)という信念をもっていました。 長州などが掲げた尊皇攘夷は、すでに外敵を幕府と見なしていたともいえます。つまり攘夷の意味合いが双方で変わってきていたといえます。そして文久三年(1863年)、四月二十一日、壬生浪士組を引き連れた近藤勇は、海岸警備視察のため下阪した将軍徳川家茂の警護に加わるという華々しい初舞台を踏むこととなるのです。その時の彼らの出で立ちは、まさに剣客集団としてふさわしい威風堂々としたものだったといわれてます。まさに近藤勇の将軍警護のために京に上った目的が叶った瞬間だったのです。そしてこの時の功績が認められ壬生浪士組はこの年の九月十八日、御所の南門を警備するという命を受け、そして会津より「新撰組」という名を授かるのです。 | |